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琵琶湖疏水とは?


> 雑学
琵琶湖疎水 琵琶湖疏水は、明治時代に建設された水路で、琵琶湖の湖水を滋賀県大津市から京都市へ流す ために作られた。一部が国の史跡に指定され、土木学会選奨土木遺産にも認定されている。 この疏水は第 1 疏水(1890 年完成)と第 2 疏水(1912 年完成)からなり、滋賀県大津市三保ヶ崎 で 23.65m3/s の水を取水する。これは水道用水や蹴上発電所による水力発電、農地の灌漑、下水 の掃流、工業用水などに使用された。蹴上発電所は日本初の営業用水力発電所であり、その電力 は電車を走らせるのに活用されるなど、近代的な機能を担った。 疏水を利用した水運も行われ、蹴上と伏見の間には水位差に対応するためのインクラインが設置さ れた。水運の終了後、これらの施設は廃止されたが、蹴上インクラインは一部が静態保存されており、 見学に訪れた際には「これがそうなのか」という感慨を覚えた。 琵琶湖疏水は疏水百選に選ばれ、また安積疏水、那須疏水と並ぶ日本三大疏水の一つとされてい る。 京都市が琵琶湖疏水を計画したのは、幕末の禁門の変で市中が焼け、人口が減少し、産業も衰退 したためであったとされている。北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的として田邉朔 郎を主任技術者として任命して、第 1 疏水の建設を開始した。 第 1 疏水は 1885 年に着工し、1890 年に完成。その費用は総額 125 万円で、産業基立金、京都府、 国費、市債、寄付金、目的税などが財源となった。当初は水力発電は計画されていなかったが、アメ リカでの視察を受けて蹴上発電所が建設された。 第 2 疏水は第 1 疏水で賄いきれない電力需要に対応するために建設されて、1912 年に完成。急速 濾過式浄水場の蹴上浄水場もこの時に設置された。 琵琶湖疏水は現在も京都市側が年間 2 億トンの湖水を得ており、「琵琶湖疏水感謝金」として滋 賀県へ支払われているそうだ。これは大正時代には発電用水利使用料として徴収されていたが、感 謝金として滋賀県と京都市の間で契約された。 工事の途中では様々な苦難があった。第 1 トンネルの建設は日本初の竪坑を使用したトンネルで、 岩盤の硬さや湧水などにより工期が予想以上に長引き、多くの殉職者を出す過酷な状況だった。 第 1 竪坑はかなりの深さにおいて、光源不足の下で行われ、出水事故や竪坑の大きさによる制約 から難航した。この工事による殉職者への慰霊碑が蹴上舟溜横の公園に建てられ、彼らの犠牲を 偲んでいる。 完成後、舟運は琵琶湖疏水が開通してから十数年間、客貨両方に利用された。疏水船は特定の大 きさで、動力はなく、トンネル内では水底がコンクリート製であるため、通常よりも先の尖った棹を腋 で抑えて進んだと言われている。京都・滋賀間を往復し、積荷は大津から下りは米・薪、伏見からの 上りは呉服・塩・砂糖などが中心的であった。しかし、競合する陸運(主に鉄道)の発展により、舟運 は衰退し、見られなくなってしまった。 舟運は戦後に新会社が設立され、屋形船が登場したが、同年冬の第 1 疏水取入口改造工事のた めに運航を停止した。その後も様々な変遷があり、最近では観光目的の船があるだけとなっている。 琵琶湖疏水の歴史は、工事中の苦難や舟運の隆盛から衰退まで、様々な出来事が絡み合っていて、 実用と観光の両面で輝いている。舟運の黄金時代や技術的な進展、そして時と共に訪れた衰退な どが、地域の歴史に深く刻まれていることを肌で実感した。 参考文献 https://www.city.kyoto.lg.jp/suido/page/0000007153.html https://biwakososui.city.kyoto.lg.jp/story/ https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story095/ https://biwakososui.kyoto.travel/ https://www.okeihan.net/recommend/mizunomichi/biwakososui/01/ https://otsu.or.jp/thingstodo/spot107 https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/800/ http://biwakososui.kyoto.travel/about/ 1 月 31 日閲覧. ならびに現地および琵琶湖疎水記念館の碑文、案内板、解説プレート