感想


荒々しい怒りがぶつけられた。しかし、決して粗削りという訳ではない。寧ろ、どの「逃避先」にも幻滅してしまった後の諦念にもなり得なかった一貫した怒りではなかろうか。抑圧の痛みを知るであろうマイノリティの集まりとて、所詮は理想郷とは程遠く、人の子の集まりに過ぎない社会のミニチュア版であることを叫びにも似た筆致が教えてくれる。それは心の余裕を持つことがしにくい環境や状態にある生きづらい人たちが寄り合えば、尚の事なのかもしれない。その中でも、他者の興味に応える形で生きづらさを自分語りすることに、しんどさを覚えて「溜め込む奴」の苦しみや憤りは蔑ろにされてきたのではないだろうか。場の空気に沿った自己開示の言語化が上手な人のみが共感や称賛を得られ、無自覚な権力性を帯びていく構図は”バズり”とインフルエンサーを求める世間とリフレインする。”きびしいせかい”からの本当の「逃避先」など無い。改善点のヒントといった生温いものではないだろう。だとしても、この訴えが、ある人には図星となったり、別の人には励ましになったり、きっかけを与え続ける旅となるはずだ。もっと気楽にいこうや〜笑笑なんて全然言える立場じゃない けれど、見え隠れする怒りと舌鋒に怯えてしまう自分もいる それが私に向いていそうなときは言うまでもないし、そうでないとしても自分勝手なことを言えば、明るい方がいい負い目もある その辛さを、嘆きを、昔より尊重できていなくてでも一方的にということもないよな、思い返せば、こちらの話に真摯になってくれたことも多々あったなあお互いが互いにとって「理解のある」存在になれるのが個人的な理想なのかも


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